記念すべき第10回は、今月40歳を迎えた前田塾塾長・前田恵一、通称「前ちゃん」の半生をご紹介します。
「頭がいい」「優しい」「おもしろい」……これまでの記事で、たくさんお褒めの言葉をいただいた、世代を問わず愛される男。
「県立トップ高校から東工大、東大院、IBM、野村證券、そして起業……どんな勝ち組だろう」という予想は見事に裏切られ、驚きの連続でした。[text: 西岡妙子]
弟の死と、母
1979年、鹿児島生まれです。フツーの子供だったと思います。小さいころは、パーマンごっことかウルトラマンごっことかして、おもちゃのカメラが大好きだったって、聞いてます。家庭のヘビーな事情で、転々と引っ越しばかり。熊本、宮崎、大分に1年ずつ住んでいましたが、僕ははっきりとは覚えてないですね。
三人兄弟で、僕が長男。3つ下に真ん中の弟、その3つ下に下の弟。真ん中の弟は、生まれてすぐに風邪か何かの菌が入って、その後遺症で半身不随の状態だったのです。歩行もできず、寝たきりでした。その弟が6歳の時に肺炎をこじらせて、亡くなってしまった。僕は9歳でした。あまりにあっけない、本当に突然のことでした。
もちろん弟の死は悲しかったけど、それ以上に、母がひどく悲しんで、立ち直れないほどの状態になったことが心に焼き付いています。大人になった今となっては、母がどんなに深い喪失感に見舞われたか、母親にとって子を失うことが想像を絶することも理解できますが、当時、9歳の僕はとにかく「母を助けたい」「この状況をどうにかしなきゃ」「何をすれば支えられるだろう」そんなことを考えていました。
いつも気丈だった母が折れるように崩れて、僕に助けを求めているように感じた。それまでは「母=守ってくれる人」だったけれど、「僕が守るべき人」になることがありうるんだなと思ったんです。
「前田塾」の原点
サッカーや野球も興味があって、小学校の頃、一応やったけど、僕、練習が大嫌いなんです。しんどいの、嫌い(笑)。練習ってつらいじゃないですか。怒られるのも嫌だし(笑)。だからすぐ辞めちゃいました。そのあとは勉強が楽しくなって学習塾に通わせてもらっていました。塾の友達がみんな中学受験をするので、僕もなんとなく受験して、私立中学に入学しました。
中学に入ってからは、中学って、部活でコミュニティが決まるから、居場所のために何か部活に入ろうと。運動部が少ない学校で、バスケ部はとてもきつそうで、柔道は痛そうだし、消去法でバレー部。スポーツ自体へのやる気はなかったです(笑)。当然、試合には出れない日々。仲間とつるむのは最高に楽しかった。ただ中3のころに急に背が伸びて、引退したあとの体育の授業ではスパイク決まるようになってきて。「もっとまじめにやればよかったかな~」って、思いました(笑)。
高校入学は福岡へ移転。最後の良い思い出からバレー部に入ったんですけど、やっぱり練習はきつい。2か月で辞めました(笑)。帰宅部生として充実した日々を過ごしてました。下校して友人たちとそのままカラオケやボーリング、麻雀三昧です。学校はまじめな進学校だったので、遊んでばかりの僕は、ひどい生徒でした(笑)
勉強も大してしなかったけど、数学だけはちょっと得意だったんです。そしたら、当時好きだったクラスの女の子に質問されはじめて。距離を縮めるために僕のできることが「数学を教える」だったんですよ。アプローチの方法はこれだ!と思い、その子に「分かりやすい」と思ってもらえるように、(笑)徹底的に勉強しました。数学に命懸けてましたよ(笑)。
本当に好きな人に何かを教えるときには、自分が問題を解けるだけでは足りない。本当に理解して、うまく説明できることこそ大事。「他者に分かりやすく教えることができた時が、本当に分かったってことだ」と気づけました。おそらくこれが、「前田塾」の原点(笑)。ちなみに、この高1の時のクラス、とても雰囲気が良くて大好きでした。
東京で会おう
そして2年生になったら、男子クラス(男クラ)に入れられました。部活やってないから、いよいよ女子との接点が皆無になってしまう……これはまずいと思い、生徒会に入りました。女の子多めの「ホームルーム委員会」っていう趣旨不明の委員会に入りました。女子と時間を過ごしたい一心でミーティングを提案しまくって、集まって、活発に活動してました(笑)。
ただ、男クラには男クラの良さがあって。男同士の面白さは、格別なものがありました。カッコつけないし、夏はみんなほぼ裸だし、試験のたびにゲーム感覚で、本気で点数を競い合うんです。牛が角をぶつけ合うように、シンプルに格闘するのがおもしろかったですね。
そこで出会ったH田くんっていうのが、本当にすごい奴で……勉強も運動もできて、ベースも弾けて、性格もいい。完全に負けたと思いました。尊敬していたし、彼に近づきたかった。彼が東大を目指していたので、僕もなんとなく、東大を意識するようになりました。
高2の3学期に、鹿児島に引っ越しすることになり、それで編入試験が必要になりました。ところが国語と英語の成績が良くなくて、まぁそれまでも先生のこともバカにして授業もまともに受けてなかったのですが……数々の無礼を土下座レベルでお詫びして(笑)、面倒見てもらって、編入試験に無事滑り込みました。
福岡を出る時に、高1の時のクラスメイト、通称「モトヨン(元4組)」のみんなが集まってくれて、大勢でお見送りをしてくれたんです。それが本当にうれしくて、またみんなに会いたくて、鹿児島に行ってからもモトヨン同窓会の幹事を僕がやっていました。メールすらない時代。家電の連絡網を使って連絡してましたね。首都圏の大学への進学を意識していた人たちとは、「東京の大学で会おう」というのが合言葉になってました。その後、東京でも何度も同窓会をしましたし、今でもまだ会いますよ。
鹿児島の高校では、モトヨンの思い出が心にあり、モトヨンみたいなクラスをつくりたくて、転校して間もないのに学級委員長に立候補しました。受験期だったので、「定期テストで、クラス平均点で僕たちのクラスがトップを取る」というのを目標にして、「みんなで勉強しよう!」という雰囲気を作って。それが趣味でした(笑)
僕も、H田くんとモトヨンの影響で、相変わらず東大に行きたかったから、勉強はしなきゃいけなかったので、実益も兼ねて。
でも、一浪するんです。福岡の駿台で、寮生活を送りました。トップキャリアコース講師の衆議院議員・宮路拓馬くんとは、実は中高と一緒だったのですが、この頃、急速に仲良くなりました。そして一浪の冬、前期で東大に落ちましたが、後期で東工大に引っかかって、進学しました。
お金を稼ぐって、大変なこと
僕は、東京に出たかっただけなんですよね。憧れの東大には落ちてるし。だから、授業に出るわけもなく、やる気が出なくて、誰でもとれるフランス語すら落としてました (笑)
大学入学が99年。世の中はすっかり不景気で、家庭の事情もあり、仕送りがほとんどなかったんです。周りの友人はもらってるのを横目に「なんで僕だけ……」と最初は思いました。でも、よくよく考えてみたら、寮のほうが安いのに「寮だと彼女ができても呼べない!」と思い、ちょっといいところを借りたのは、僕。東京に出たいと言ったのも、そもそも大学に行きたいと言ったのも、僕。「親には支払いの義務はないな」と、価値観が変わったんです。
ひとまず「稼がなきゃ」と思い、ラーメン屋でバイトしてみたけど、キツくてすぐやめました。キツいの本当に苦手みたいで。だから、キツい仕事を淡々とこなす、労働する人には強い敬意を持っています。僕の母がコツコツ働いて生活を支えてくれていたことを思い、改めて尊敬し、心から感謝しました。お金を稼ぐって、大変なことですよね。
それで、家庭教師ならできると思って、自分でチラシを作ってスーパーに貼ったりして……金持ちがいそうな田園調布のスーパーを狙ったりして(笑)。当たり前だけど最初は全然効果なくて、でも少しずつ、生徒さんの口コミで増えました。
ただ、僕が家庭教師として本当にいいと思うやり方は、いわゆる地頭を育てる方法で、点数にはすぐには直結しない。けど、それではすぐにクビになってしまうので、公式や解法を覚えさせるようなやり方を求められていました。「それは本当の学びではない」と、内心苦しかったことを思い出します。
今、前田塾で実践している学びは、丸暗記の真逆ですから、習得するのに時間と労力がかかるものなんです。楽ではありませんが、ただ、習得したら一生モノになります。
それから「東大家庭教師友の会」で事務のバイトもしてました。「東大」っていうだけで、家庭教師の単価も違う。「くっそ~」と思いましたね(笑)その事務局で、栃木県の那須から要望が来ていたのだけど、遠いから東大生は誰も行かない。でも、そのご家庭は家庭教師を本当に必要としていたので、一度電話口に生徒さんに出てもらって、向こう数か月で学校でやる内容の重要点を一通りレクチャーをしたんです。数時間ほど。そしたら後日、先方から僕にお願いしたいというご指名が入って、それから那須に家庭教師に行くようになりました。
新幹線含め片道2時間かかるけど、まとまった金額をいただけるので、毎週日曜は丸一日、那須のそのお宅で家庭教師をして過ごすように。一番上の女の子の受験が終わってからも、下の弟さんたちの分まで、合計で7年間、通い続けましたね。学部の4年間、院の2年間、そして後就職してからも1年間です(笑)社会人になって1年目、12月には大阪に異動になったけれど、大阪から那須まで毎週通っていました。往復もはや9時間です。「何やってんだろ」と思いながらも、約束ですし。その一番下の子が推薦で無事に決まってくれたので、責務を全うできました。早めに終わってちょっと助かりました(笑)。
2番目の男の子は、中学生で荒れてたのですが、パワプロをきっかけに、少しずつ心を開いて慕ってくれて……僕もゲーマーなので、それが活きました(笑)荒れてるんだけど、僕が行くときには必ず家にいたんです。仲良くなるにつれ、彼自身が勉強しようという意欲を持つようになり、そして高校大学と進学する気になったので、僕が指導を引き受けました。後に、彼に「人生のターニングポイントだった」と言われたことが、僕にとってもターニングポイントになりました。教育が持つ意味や意義を再認識しました。本当に嬉しかったです。
で、肝心の僕の学業は、卒業が本当にやばいということに突如気づき(笑)多くの友達が行くからという理由で情報工学に進んだのですが、実はちっとも興味なかったのです。でも、3年の前期に、「あれ、このままだとどうやら卒業できないぞ?」と気づいてから、慌てて死ぬほど勉強しました(笑)大学院にも行きたかったので、卒業と院試のために、ほんとによく勉強しましたね。「効率が上がる勉強の仕方」もかなり研究しました(笑)友人たちはとっくに単位を取り終わっていたので、勉強仲間もいなくて、孤独な戦いでした。それまで授業にろくに出てなかったので、ほぼ独学です。ま、全部自業自得なんですが(笑)
情報工学、特にAI(機械学習)や暗号理論など……学べば学ぶほど、すごいな、と思いました。勉強って本気でやると面白いんですよね~、「今さら言うか」って感じですけど(笑)おもしろいけど、その後、全く役には立たなくて。ところが最近やっと、AIというワードが世間でも出てきて……20年近く経って、今、数学やAIの講座を開講できています(笑)
挫折と転機
大学院は、東大に行きたいというあの頃からの憧れも尾を引いていて(笑)そしてやっぱり数学が好きだから、数学専攻で東大の院へ。入学当初は本当にうれしかったです。だけど次第に研究室がつらくなってくるんです……難易度が高すぎて……。太刀打ちできない、と心折れました。研究者が楽な道ではないことを知り、ほんとに、ぽっきりと。数学、大好きなのに、得意だったのに……大失恋。
だってね、研究室、左利きばっかりなんですよ!!いかにも「天才!」って人がごろごろと。もう、悔しくて悔しくて。だからね~、僕、左利きになろうと思って、めっちゃ練習しましたよ!! 箸だけは根性で使えるようになって、だから今でも左でご飯食べられます!(笑)
それからは研究は撤収し、飲んだくれてました。英会話サークルに入っていたので、そこに入り浸ってグダグダと管を巻いて。でも、そのサークルにおもしろい人がたくさんいて、「数学しかない」という僕の思い込みを壊し、いろんな価値観、多様な生き方があることに気づかせてくれました。「挫折した今、大学院でできることは何もない」と落ち込んでいた僕は、それで「できるだけ多くの友達を作ろう!」と、どんどんいろんな人と飲み会をやるようになりました。
そうすると、おもしろい人にどんどん出会えて、その人たちが大体、大学にはあまり行ってない、という人たちばかりでした。そこで、それまで抱いていた「学校で勉強をする人=頭が良くておもしろい人」という謎の固定観念から解放され、「大学以外にも世界がある」と、視野がまたぐっと広がりました。
その頃の友人の一人に「IBMビジネスカレッジ」を紹介されて、入会試験に合格して通えることになり、なんと、そこには女子がたくさんいました!!(笑) 東工大も、東大院の数学の研究室も女子が少なかったので、嬉しくて、場を作る係を率先して引き受けていました。ホームルーム委員会再び、ですね(笑)。その時のメンバー58名のうち約半分はIBMに就職。僕もその一人です。また、のちに共に起業することになる仲間も、そこにいました。
IBMに内定もらったものの、今度は院の卒業がやばいんです(笑)卒業できないと内定取消し。だけど数学には挫折していた僕は、「研究室からどこまで逃げられるか」にチャレンジしていたので(笑)教授からも「お前みたいに不真面目な奴は見たことがない」と怒られたほどで。教授、怒りに震えていました、文字通り(笑)
こっちは内定かかってますから、そこから半年は研究室に泊まり込みです。研究一色。論文も何とか書き上げて、なんとか2005年、卒業できました。
就職、転職、そして……
IBMには3年勤めました。本当にいい会社で、大好きでした。でも、僕は鹿児島の母に仕送りをしていたのと、6個下の弟の「声楽をやりたい」という夢をかなえたいと思って、その分も捻出したかったのです。音楽って、本当に金がかかるんですよ。それにはお給料が全然足りなかったんです。
それで、「生活コストをギリギリまで削ろう」と思って、まず家賃を削りました。津田沼から新京成電鉄に乗り換えて高根公団前という駅から徒歩20分のところに家賃2万円のアパートを見つけて、そこを借りました。でも、仕事は激務だったから、通勤に時間がかかるのは辛い。だから、月曜の朝に5日分のワイシャツと下着を持って出社して、平日は会社近くのネットカフェに泊まって、金曜に帰るんです。そうすると、通勤手当との差額もちょっと浮くんですよ(笑)風を通すためにも、週一は家には帰り、土日で、コインランドリーで洗濯です。洗濯の間、ジャンプ読んで、それが僕の休日(笑)。
でも、やっぱり疲れがたまってくるんですね。「何かがおかしい」と。「このままの生活では破たんする。これは構造の問題だ、うまくいくわけがない」ということに、ようやく気付くんです(笑)。そんなときに、ネットで「某外資系証券会社ではボーナスがいくら」みたいなニュースを目にして、「くっそ~!!」と思って、IBMは本当に大好きだったので迷ったんだけど、「収入アップのために証券会社に転職だ!」と決意しました(笑)
でも、外資の方がお給料はいいのですが、僕は英語がダメなので外資は無理。だから「日系の証券会社に行こう!」と、読んでいたジャンプを「金融入門」とか「デリバティブ入門」に持ち替えて、洗濯の合間に勉強しました。そして友人がつないでくれて、野村證券に転職できたんです。もちろん努力はしたけど、友人の口添えもあったと思います。幸運だったし、感謝しています。
それでトレーディングの仕事を始めて、給料はよかったんですが……飽きてきたんですね(笑)。最初は、世界を動かしている気になって自分に酔ってた時期もありましたが、酔いが醒めてくると、「お客様の注文通りに処理するだけで、ずっと同じことをする確認係なんだ」と思ってしまって。何もやっていない、ただのウォッチャーじゃないか、と。
それで、せめて国内で一番のトレーダーになってやろうと思って、平日のニュースを全部取りためて、帰宅後や土日に3倍速で全部見る、ということを繰り返していたんです。それを1年くらいやっていると、社会のことがだいぶ分かるようになってきました。
でも今度は、「大量にインプットはあるものの、僕としてのアウトプットは何だろう」と思い始めたんですね。「僕自身は知識をため込むばかりで、何もしていないじゃないか」と。その一方で、年収は勝手に上がっていく。それがどうにも座りが悪い。
一方、僕が当時、熱を入れていて行っていたのがホームパーティ。徳谷 智史さんともこの頃出会いました。
「人のつながりにより貢献できる仕組みがつくりたい」そう思って、エンジニアの友達と、アプリを作ってリリースしてみたんです。売上なんて全然上がらない代物でしたが、周りの反応は結構よくて、それなりに楽しんでました。
そんな時に、2011年3月11日。東日本大震災が起きました。
未曽有の大災害。「人生は一度きりだ」ということを痛烈に感じ、「このままトレーダーを続けるのか」「それとも何かチャレンジをするのか」それまで曖昧にしていた問いが、自分にまっすぐ突き刺さり……勢いで、3月31日には辞表を提出していました。
もちろんすんなりとは辞められず、引継ぎを済ませて、5月末には退社して、ついに株式会社レゾナンスの起業となりました。
------------------
控えめに言って、どんな塾生よりも何も考えていないような気がするんです、塾長……。左利きの練習って何なんすか……とツッコミを入れざるを得ません。
でも、目の前にある荒波を一つ一つ、どんな時も諦めずに、知恵を絞って自分の持てる武器を使って解決策を練る姿勢は、さすがです。
「どんなピンチもどうにかする力」がハンパない。起業後ももちろん、波乱万丈!
なんで会社なんて作ったんだろう
2011年5月。震災の勢いで会社を辞めて起業したものの、序盤から逆風が吹き荒れていたように思えました。facebookが流行りはじめ、いつ自分たちのサービスを食い破ってくるか、不安はつきませんでした。「枕を高くして眠れない日々」が続き、結局このサービスは撤退をすることにしました。周りからはめちゃめちゃ心配されていたものの、「あれだけの会社を捨てて始めるくらいだから、さすがに何か考えがあるのだろう」とすら思われていたようです……が、実は、そのあとは本当に何もなかった。
会社を辞めてきてくれた人や古くからの友人と、10人で始めたレゾナンス。でも数か月で進むべき進路が見えなくなった。今から「何やるの?」という状態。貯金だけがどんどん減っていき、雰囲気はどんどん険悪になります。2011年の年末には、早くも最悪な状況。仕事の取り方も全然わからないし、「なんでもいいから」と気合で引き受けた案件が、やればやるほど赤字になるようなものだったり……。
2012年は、さらなる悲劇の年。相変わらずの最悪な経営状況の中で、プライベートでは、高校の同級生と付き合い始めて、結婚を考えるようになったんです。メンバーからは「それどころじゃないだろう」と反対の声も上がりましたが、でもそれを押し切って、結婚しました。
ほんとにお金がなくて、吉野家が贅沢に見えた。玉子のトッピングすらとてもできない。「なんで会社なんて作ったんだろう」「野村證券に戻りたい」って思ってた時期もありました。リーダーとして、絶対に思ってはいけないことですよね。社長失格。
家庭もしんどいし、会社もしんどいし。「お金さえあれば」と思っていたけれど、そうじゃない。今思えば、「お金がないことから思いやりまでなくしてしまったこと」が原因なんです。会社も家庭もすべて投げ出したいと思った、悪夢のような1年でした。結婚生活は2年弱で破たん。子どもも生まれましたが、彼女が引き取りました。彼女には本当に迷惑をかけた。申し訳ないと思っています。
創業仲間との別れと「前田塾」誕生前夜
そして2013年の正月から、「何でもします」と、倉庫管理から何から、仕事を選ばずにやっていった結果、だんだんと稼ぎがつくようになりました。忙しくなり、生活が豊かにはなってきたのですが、そうすると「このままいくか」「やりたいことに絞ってやるか」という問題にぶち当たるわけです。
みんなそれまでの仕事を辞めてまで、レゾナンスにやってきた人たち。「チャレンジしたい」「今までにないことをやりたい」という気持ちが、やっぱり心のどこかにある。話し合いを重ねて「お金だけじゃない」という結論になり、別々の道を歩むことになりました。現在トップキャリアコースで講師を務めてくれている方志嘉孝さん、松本勇気さんも当時の創業メンバーの仲間でした。
そのころは、僕が好きで開いていたホームパーティーの中で、参加者から転職相談を受けるようになっていて、一方でベンチャーの知人たちからは求人相談を受けていたので、それをマッチングさせることが事業になりつつあったんです。それから、システム構築などのIT系も収入の柱でした。
僕が人材紹介系の仕事を引き取り、IT系の仕事はお客さんもともにそれぞれのメンバーに渡して、たまっていたお金もみんなで分けて、いったん解散しました。
離婚直前で別居していて、創業仲間とも別れて、すごく寂しかったんですよ。弟と二人で暮らしていたのですが、とにかく飲み仲間がほしくて作ったのが、「前田塾」の選抜コース(笑)。「何かを学べるよ」といえば集まってくれるかな、と思って、始めました。「勉強」が仲良くなるための口実なのは、高1から変わらないですね(笑)。粗利そのものが赤字な事業でしたが、これが「前田塾」誕生秘話(笑)。
講師業は、2011年、他社との共催での「ビジネスメンタ―シップ」という連続講座が始まりです。「学生時代の友達がたくさんいると、社会に出てからいろんな場面で助け合える」という経験から、モトヨンの幸せな思い出を抱きつつ、そのような場づくりを目指しました。トップキャリアコースの原型で、十川 良昭さんや間庭 裕喜さんとは、学生時代からの繋がりもあり、この頃にもだいぶお世話になりました。勉強するというよりは、禅問答のような……「仕事とは何か」「何のために働くのか」……ビジネスメンタ―シップは、そういう根本的な問いを、対話を通して探っていくような講座でした。
一方で、完全に僕の飲み仲間募集目的の講座、「前田塾・選抜コース」は、口コミでじわじわ人気が出てしまって(笑)、1期、2期はそれぞれ12名ずつ、期を追うごとに人は増え続け、最終的には30名弱で25期まで、4年2か月、続きました。稼ぎたかったわけではなくて「無料はさすがに良くないだろう」と思って始めた僕の道楽だったのですが、福岡や札幌、大阪、名古屋でも、出張講座をやりました。
2016年からは事業として見直し、「合宿」という形になりました。GW、夏、秋に開催しつつ、まだまだ試行錯誤中。大阪でもやっていましたが、今年からは、関東のみでの開催です。地方は意外にコストがかかること、他の事業が忙しくなったことと、僕も年を取ったこともあって(笑)。でも、準備を手伝ってくれる人がいれば、地方への出張も考えてます。
出会いを提供する人材紹介
というわけで、現在の株式会社レゾナンスの2本柱の一つはこの「前田塾」。そしてもう一つが、人材紹介事業です。採用に困っていた創業期のベンチャー企業と、転職を考えている若手社会人や就活中の大学生をつなぎ始めた2012年ごろは、時流もあって、大きな需要がありました。
新卒にしろ転職にしろ、求職している方と企業、双方のお話をきちんとヒアリングすることを大切にしています。
人材マッチングには、いろんな紆余曲折の末、「友達に紹介する」紹介業がとてもうまくいくように思えます。その友達は「大企業からスピンアウトして急成長している企業」がほとんど。創業10年以内でのベンチャー企業は、規模にもよりますが、社長との相性が決め手。もちろん労働条件も大事ですが、社長の気概や人柄をちゃんと見抜いて、相性がいい人材とマッチングを行うことが大事。固い面接を行うよりもむしろ、飲みながらお互いのことを理解するようなマッチングのほうがうまくいきます。結果、両者の満足度が高くなる。
法人と個人が仲間になれるような幸せな出会いを提供したいという思いは、人材紹介であっても「前田塾」と共通していますね。
仲間に出会う。時代を創る。
前田塾の初期に参加していた子たちが、そろそろ社会人6年目くらいになるんですよ。それで、社会人向けの講座のニーズを感じて、僕の仲の良い友人を中心に講座を集めて企画したがトップキャリアコースです。「あの頃の学生たちどうしているだろう、再会の場があったらおもしろいだろうな」という狙いもありました。実際、同窓会的に参加くださる懐かしい顔もいます。本当に嬉しいことですよ。現在2020年1月からの第3期の募集が始まったところですね。
僕の人生を変えたコミュニティだったIBMビジネスカレッジのような場を、そろそろ僕が20代のために作る番だ、という思いもありました。
単純に学ぶためだけ、知識を得るだけなら、独学でもいい。でも僕は「学び」を通した仲間はとても質が高いことを実感しています。そして、「共通の目標や課題に向き合う」ことも、仲間づくりには大切。仲間の存在が、直接的にせよ間接的にせよ、世界観を広げ、人生のブレイクスルーをもたらしてくれるものなのです。
すべての塾講義には懇親会が付いていて、それぞれ頑張って勉強した後、「講師と生徒」という枠が外れた場で飲んで語り合うのが僕も大好き。トップキャリアコースの懇親会には講師も参加してもらっていて、難しい講義とはまたちょっと違った、ざっくばらんに質問できる楽しい飲み会です。これまた、名刺交換してお話しするだけの交流会では、「顔見知り」は増えますが「仲間」にはなるのは難しいですよね。
目的志向の勉強の時間と自由な懇親会という対照的な組み合わせが、我ながらとてもいいと思っています(笑)。そして僕が用意できるのは、出会うための場。出会いさえすれば、後は自然に、参加者それぞれの必要な方へ導かれていくことを、何度も目の当たりにしてきました。僕も彼らからたくさん刺激や学びをもらうし、うまくいっている話もそうでない話も聞くのがとても楽しみです。
トップキャリアコース生をはじめとした前田塾生は、社会参加への意識が高い人が多いですね。それぞれの中に、「何か価値を提供したい」「問題を解決したい」という思いがある。時代を創っていくエネルギーのある若者がたくさん集まってくれて、頼もしい限りです。
その問題と向き合うときには、真剣になりすぎて飲み込まれないように、「社会とどう遊ぶか」「遊びを持って向き合うか」、俯瞰と集中、両方の視点を行き来することが大切じゃないかな。僕自身、対象にのめりこんで視野が狭くなって苦しくなり、そのたびに友人や仲間に何度も救われてきました。
視点を自由自在に動かせるように刺激を与え、固定観念から解放してくれるのは、気の置けない仲間の存在だと僕は思います。だから僕は、コミュニティを作り続けます。
いかがでしたか。
たびたび訪れるピンチの場面でも、「よし、そう来たか!じゃあ……」と次の手を探す根気強さ。ただそれが「がんばり」ではなくて、チャレンジを楽しみ遊んでいるように見える不思議。
少年漫画の主人公のように、降りかかる困難を飛び越え、潜り抜けながら、成長を続けてきた前ちゃん。
文字で見ると着実に歩んできたかのような経歴ですが、あらかじめ目標を立ててこうなったわけではない。
「計画的偶発性」——— キャリアを積むにはそれしかないよね、と前ちゃんは言います。
就活のために自己分析をした結果、かえって身動きが取れなくなることもあるでしょう。
そんな時には、「女子がいる」「好きな友達が目指してた」「金が欲しい」それだけで飛び出した前ちゃんの行動力が、参考になるかもしれません。目の前のこと、目の前の人のためだけに行動を起こすことから、道が開けていくかもしれません。
きっかけは身近なことであっても、視野を広げ続け、視点を自由に解放することが成長につながっていくと、前ちゃんの数々のエピソードが教えてくれます。
そして、そのために前ちゃんが一番大切にしているものが、世代も性別も問わない「仲間」。
1万字インタビュー、お読みいただきありがとうございました。